校歌物語

 「広野に立ちて 見わたせば」これは倉賀野小学校々歌の冒頭の一節である。中村孝也氏の作詞である。学校の沿革史によると校歌の制定は、昭和9年7月(1934年)とある。戦前のことであり、この年すでに開校六十周年である。校舎を新築し現在地に移行したのが大正11年(1922年)である。
 ところで、倉賀野小学校の校歌は開校以来3回の制定があったことをご存じだろうか?正確に言うと曲としては2曲、歌詞としては三つ存在する(制定2回改訂1回)のである。 最初の曲は、明治時代に制定されたものであり、歌詞は5番まであった。

※注1


この曲は昭和9年の新校歌制定後も儀式等の際には歌われていたようで、昭和29年(1954年)に行われた開校80周年記念式典の印刷物には、倉賀野小学校歌として、印刷されているのである。
 では、昭和9年に制定された校歌は、何故歌われなくなったのか? それは、歌詞に戦時色が強かったからである。

※注2


 従って、戦後は、まったく歌われず、明治9年制定の校歌を歌っていたのである。この状況は、昭和42年(1967年)まで続くのである。
 昭和42年体育館兼講堂棟(現在の体育館の前のもの)の建設が決定し、これと呼応するかのように、校歌改訂のプロジェクト(校歌制定委員会)が生まれるのである。校歌改訂の趣旨は、体育館建設を機会に、ぜひ今の教育に適合し、子ども達に心から唱和させるに足る立派な校歌が欲しいと言う要望に応えるもので、当時、学校側からもPTAからもそのような要望があり、P側の志のある方からは、歌詞の労作も寄せられる程であった。委員会のメンバーは、学校側から、校長・教頭・音楽主任・各学年代表一名の計9名。P側から、本部役員4名。町からは有識者3名。合計16名の構成であった。
 校歌制定委員会は、昭和42年9月25日第1回会合を開き、曲は井上武士氏作曲のものをそのまま用い、歌詞を一部訂正する程度にし、歌詞の改訂は中村孝也氏に依頼することに決定した。改訂当初の希望は、一番「桑の海」は現在次第に失われていること。二番「古墳のほとり 城のあと」は残っているが、次第に切り拓かれて、工場ができ、国道を日夜車の行列が走っていること。三番に校章の「かりがね」を歌い込んで欲しいこと。本校の校章は、倉賀野城主の紋所にかたどってあり、二羽のかりがねが仲睦まじく頭を寄せ合っている。これを是非歌詞にあらわして欲しい。というものであった。第3回会合では代表3名を上京させ、依頼することを決定、中村氏は、当時80歳以上の御高齢であったが、依頼のため、上京した代表3名に快諾の旨を伝えると共に、暮れの内に、AB二案を考えてくださったのである。

注3


 校歌制定委員会は、年明け1月10日の第5回会合で、AB二案を検討し、B案は、きれいに整っているが抽象的で、倉賀野の特殊性が出ていないとの理由でA案を採用することにした。また、A案の二番は、現実的過ぎて情緒がないとの理由で、古い歌詞の「古墳のほとり 城のあと」を入れること、三番にB案に使われた「かりがね」を生かし、「友愛」の二文字は是非入れて欲しいとの結論に達し、趣旨を生かした歌詞の再考を中村氏に再度依頼した。中村氏は趣旨を快諾し、1月20日頃には、最終案を考えてくださった様である。校歌制定委員会は、これをうけて、1月25日第6回会合を開き、現行の歌詞を決定し、昭和43年2月23日付けの「倉賀野郷校」No.23号で公表したのである。また、校歌は、昭和43年3月9日の体育館落成式に発表し、今後本校の教育の指標として、機会あるごとに歌わせて行くことと決意したのである。
 この様な経緯で作られた現行の校歌は、一番でふるさと倉賀野の風光を、二番で倉賀野の歴史と時代の進展を、三番で倉賀野小の教育の指標を詩っているのである。
 私たちは、先人が是非にと残した仲睦まじい「かりがね」と「友愛」の精神を引き継いで行く必要がある。