学校名(英語)

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令和6年度を迎えて
          
               高崎市立第一中学校   校長  山崎 幹夫

 この第一中学校は、明治31年(西暦1898年)からの連綿たる歴史と伝統を受け継ぎ、創立73年目となり、約1万6千人の卒業生を輩出している学校です。教育目標「思いやりの心をもとう、自ら学ぼう、身体を鍛えよう、自分に克とう」の実現、この教育信条に込められた生徒への指針は、本校教育の中で脈々と受け継がれ、それぞれの時代に即した素晴らしい生徒を育ててきました。
 
 本校では、具体的な目指す生徒像として、「思いやりの心をもとう」では、(徳)思いやりの心づかいのできる生徒、「自ら学ぼう」では、(知)知識を知恵として活用できる生徒、「身体を鍛えよう」では、(体)目標をもち、粘り強く努力する生徒を目指しています。そして、(徳)(知)(体)を支える力として「自分に克とう」を大切にしています。

 本年もこの教育信条を受け継ぎ、本校での義務教育最後の三年間が、生徒達にとって「自らの未来を創造するための学びの時間」となるように、職員一同力を合わせて教育活動を展開していきたいと思います。保護者・地域の皆様には、今後もより一層の本校の教育活動へのご理解とご協力をお願いするとともに、第一中学校の生徒を温かく見守っていただきますようお願い申し上げます。
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            〜第一中学校の歴史〜

高崎市立第一中学校は昭和27年に開校し、今年で73年目を迎えます  この地に学校が設置されたのは明治31年(西暦1898年)3月で、群馬県立高崎中学校(現 高崎高校)がこの上和田の地に創立されました。そして、昭和13年12月に現在の高崎市八千代町に移転するまで、高崎中学校はこの地にありました。その歴史を示す記念碑が正門付近にあります。 その後、高崎中学校の校舎を改築する形で、昭和14年に高崎市立高崎高等小学校が開校しました。この学校こそが、本校の歴史の始まりと見ることができます。 第二次世界大戦前の義務教育年限は6年間でした。小学校6年を卒業した後は、就職する人もいれば、進学する人もいました。その進学先の一つとして高等小学校が存在しました。今でたとえるなら、中学一年と、中学二年ということになります。もちろん、高等小学校は義務教育ではないわけですから、高等小学校や旧制の中学校に進学した人もいる一方で、就職した人もいたわけです。昭和の十年代の記録を見ますと、約半数の人が小学校6年で卒業して職についていたそうした時代であったと言えます。 その後、昭和16年には校名もややシンプルになり高崎市立高等小学校となりました。同年は、第二世界大戦が勃発した年であり、さらに高崎市第一国民学校と校名を変更しています。 大戦終了後の昭和22年に、義務教育が小学校6年間から、現在の中学校三ヵ年が加わり、義務教育の年限が9年間になりました。それに伴い、昭和22年に高崎市第一国民学 校から高崎市立中央中学校となりました。 当時の記録をみますと、今では考えられないことですが、「高崎市立中央中学校、北中学校、東中学校、塚沢中学校が創立併置さる」とあります。つまり、本校のこの地に四つの中学校が同居していたことになります。本校初代校長であった阿久澤徳太郎先生の記録文には、一つの校長室に、他校の校長と机を並べていたという文章がみられます。 後に、塚沢中学校や東中学校が独立して、昭和27年に通学区の大幅見直しが行われ北中学校区及び六郷中学校区が統合されて、高崎市立第一中学校がとなりました。 当時の通学区域は、筑縄町、上小鳥町、上小塙町、下小塙町、上並榎町、住吉町、本町、大橋町、末広町、成田町、相生町、飯塚町、請地町、昭和町、上和田町、下小鳥町、並榎町、台町でした。 開校当時は生徒数が1300名と大規模校で、昭和30年には生徒数がなんと1700名を超えました。そこで、昭和31年に第四中学校(現 並榎中学校)が独立分離しました。その後、多少の通学区の変更があり、現在に至っています。  第一中学校は昭和27年の開校以来、今年で72年目を迎えますが、さらにその前身の高崎市立中央中学校、第一国民学校さらには、高崎高等小学校と連綿たる歴史があります。 この高崎市立中央中学校、第一国民学校当時の校門を飾った石版が玄関を入ったところに飾られています。4.8令和6年度始業式1 (画像 3)