本校の概要

 現在の中学校の歴史は、第二次世界大戦(大東亜戦争)が終わり新制中学校が発足した昭和22年からのものである。当時は、社会が敗戦のショックから抜けきらず、それでも徐々に国家の立て直しを国民の手で成し遂げなければならないと誰しもが感じている時でもあった。
 本校は、昭和22年4月1日に六三制の新学校制度が発足したのを受けて、同年4月29日に佐野小学校の校舎を間借りして開校した。当時高崎市で開校された7つの中学校のひとつである。
 校区は、高崎駅東口から南東部に広がる地域である。中央部には旧高崎競馬場跡地があり、それを囲む住宅地と店舗・商業施設からなる人口密度の大きい地域となっている。また、校区を国道17号線が横切るとともに、環状バイパスやそこから分岐した幹線道が高崎駅につながり、交通の激しい地域となっているが、南部にはまだまだ田畑が残り、駅近辺の住宅密集地と好対照を見せている。
 高崎駅東口は、かつては高崎駅の表玄関である西口に比較して発展が遅れ、農地の多い地域であったが、近年の大規模商業施設の誘致、店舗や大手予備校の林立、また駅近辺の道路の整備やそれにともなうマンションや住宅の建設などに加えて、令和元年度には「高崎藝術劇場」がオープンし、今年4月には「Gメッセ群馬」がオープンするなど、変化の著しい地域である。
 本校は、群馬県下でも有数の大規模校であり、平成23年度より3年間「副校長配置」のモデル校でもあった。

佐野の由来

 佐野の地は、万葉集の歌枕で詠われているように、古来から有名な地域である。また、謡曲「鉢木」で知られる佐野源左衛門常世が住んでいたところといい伝えられており、校区内に所縁の常世神社がある。
『かみつけの佐野の舟橋取り放し親は離くれど吾は離かるがへ』(万葉集3439)
 【通釈】佐野の舟橋を取り放すように、親は私たちの間を遠ざけるけれど、私はあなたから離れません。
『上野(かみつけ)の佐野の茎立ち折りはやしあれは待たむゑ今年来ずとも』(万葉集3406)
 【通釈】上野の佐野の菜を折って料理して、私はいつまでも待っています、たとえ今年はあなたがいらっしゃらなくても・・・・・。
『東路の佐野の舟橋かけてのみ思ひわたるを知る人のなき』(後撰和歌集619)
 【通釈】東国の佐野の舟橋を架け渡す――その「かけ」ではないが、思いをかけてずっと恋し続けていることを知ってくれる人がいないことだ。
※「舟橋」とは、多くの船を並べ、その上に板を渡して橋としたもの。
※かけて・・・「(橋を)架けて」「(思いを)かけて」の掛詞

佐野地域の紹介

民話「佐野の舟橋」・・・・むかし、烏川という川ををはさんで二つの村があり、それぞれに朝日の長者と夕日の長者が住んでいました。村人たちは二つの村の間に舟橋を作って行きを来していました。
 朝日の長者にはナミという娘が、夕日の長者には小治朗という息子がいましたが、二人はいつしか舟橋を渡ってデートを重ねるようになりました。しかしある夜、デートの邪魔のために舟橋のまん中の橋板がはずされてしまったのです。真っ暗な夜のこと、足元はぜんぜん見えません。何も知らない二人はそれぞれの岸から舟橋を渡ろうとしたのですが・・・。
 翌朝、かわいそうに、しっかりと抱き合ったままの姿で二人の遺体が川から発見されました。それから先、不思議なことに舟橋の近くで毎晩のように怪しい炎が燃えるようになったのです。村人たちは二人の供養を行いました。その後は、怪しい炎は見えなくなったそうです。(高崎市ホームページより)
謡曲「鉢木」・・・・鎌倉時代の13世紀の中頃にあったことをもとに、それからおよそ150年後、能楽が完成してきたころに書かれた作品と言われています。作者は、観阿弥とも世阿弥とも言われていますが、断定できないというのが定説のようです。
 「鉢木」は、佐野源左衛門常世の物語です。零落した貧乏暮らしの中で、佐野源左衛門常世が一夜の宿を求めてきた旅僧(実は時の鎌倉幕府の執権北条時頼)を、大事にしていた鉢の木を燃やして暖をとらせた思いやりと、落ちぶれても主君にたいしての忠節を尽くす心を持ち続けていた真心が、常世を再び世に出すもとになったという物語です。(「鉢木のこころ」佐藤益朗著より)